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琉球ガラスの歴史

【 琉 球 ガ ラ ス の 歴 史 】

1.琉球ガラスの原点

琉球ガラスが作られ始めたのは明治の中期ごろとされています。
量産的に作られるようになったのは戦後間もない頃、アメリカ軍の駐留軍人向けに作られるようになった事がきっかけとなりました。
当時沖縄を占領したアメリカ兵が捨てた清涼飲料の空き瓶を資源とし、リサイクルして生まれたのが現代に続く色彩豊かな琉球ガラスの始まりとされています。

2.琉球ガラスの発展

アメリカ軍が戦後も駐留し続けた歴史背景から、琉球ガラスは著しく発展を遂げます。
その頃の琉球ガラスの原料は再生ガラスが主でした。
厚みがあり、またガラスの中に気泡が入り色味も現在のような原色の鮮やかな色合いではなくむしろくすんだ透明色が主色でした。
しかし、他のガラス器に見られるようなガラス特有の透明感や冷たい感じや繊細さはなく、深みのある色合いや独特の気泡がむしろ沖縄らしい魅力として喜ばれ、現代に至るようになりました。
本来ならば不良品扱いとなる気泡も琉球ガラスの特徴として取り入れ、活かし、深め、原料ガラスを使う工房が増える今日でも、素朴な味わいや光の芸術として受け継がれています。

3.琉球ガラス 職人の心

琉球ガラスの製法にはガラスを吹き竿の先に巻き取って息を吹き込み形を整える「宙吹き」と、型の中に直接吹き込む「型吹き」とがあります。
成形における吹きガラスの工程は、一切が冷え切らないうちに仕上げなければなりません。
1400度にもなる炎で熱せられたガラスはドロドロに溶けており、生き物のように絶えず動きます。
一瞬たりとも気を抜けないないその作業は、想像を超えた暑さになります。
そんな中で、意志を持ってるかの様なガラスの動きに心を合わせ、本来持つガラスの特徴に向き合うことで、作り手の意志や技術を超えた琉球ガラスの色彩や輝きが生まれるのです。

4.ハンドメイド商品に込めた
kubagasayaの想い

私たちkubagasayaで扱う琉球ガラスは、ガラス職人がひとつひとつ手作りしたものです。
ひと吹きひと吹き情熱を込め作り上げられたガラスたち。
同じ商品でも気泡やクラック(ひび加工)、 色合い、大きさなど表情が異なるガラスたち。
だからこそそれぞれの個性がたまらなく愛おしいものとなり、なんでもない日常をきらきらと心浮き立つ日々に変える力を秘めています。

大量生産では味わうことのできないハンドメイドの醍醐味を全国の皆様にお届けすることで

お客様を笑顔に!お客様をHappyに!

これこそが私たちにとっての喜びであり原動力となっています

『kubagasaya』はこれからも心踊る色彩豊かな『琉球ガラス』を全国へ発信し続けます!

シーサーの歴史



琉球ガラスの歴史と特徴


琉球ガラスの製法には、

ガラスを竿の先に巻き取って息を吹き込み形を整える「宙吹き」と、

型の中に直接吹き込む「型吹き」とがあります。

成形における吹きガラスの工程は、

一切が冷え切らないうちに仕上げなければなりません。


1400度にもなる炎で熱せられたガラスはドロドロに溶けており、

生き物のように絶えず動きます。


一瞬たりとも気を抜けないないその作業は、真夏の沖縄のうねる暑さも加わり、

想像を超えた暑さになります。


そんな中で、意志を持ってるかの様なガラスの動きに心を合わせ、

本来持つガラスの特徴に向き合うことで、

作り手の意志や技術を超えた琉球ガラスの色彩や、

輝きが生まれるのです。




琉球ガラスの歴史と特徴



稲嶺盛吉プロフィール



稲嶺盛吉プロフィール
↑現代の名工!あの稲嶺盛吉の作品「土紋宙吹きグラス」を見る♪




池宮城善郎プロフィール



琉球ガラスの気泡の海ハートグラス
↑現代の名工!「池宮城善郎×kubagasaya」のコラボ作品「気泡の海ハートグラス」を見る♪

キジムナーについて

キジムナーに

ついて
ちび絵(S)うしぐるま

キジムナーの

特徴


沖縄諸島周辺で伝承されてきた妖精キジムナーは、赤髪で身長が1メートル程度、目がクリクリとした 子供のような容姿を持ち、男女の性別があり、大人になって結婚もすれば家族を形成するなど、とても 人間らしい生活スタイルを持ったガジュマルなどの古い大木に住むイタズラ好きの妖精だと言われてお ります。主食は魚で、とくに魚の目玉(左目)が大好物で、仲良くなりたかったら魚の左目をプレゼント すると良いと言われている。

人との交わりも多く、一度仲良くなると親切になり、田畑の手伝いや一緒に船に乗って漁に出たり、料 理なども手伝ったりすることも多い。人間の友達が出来ると魚捕りの上手なキジムナーは、友人を誘っ て雨の日も風の日も休まず海に漁に行くそうです。一緒に漁に行く人間は魚が大漁にとれ裕福になると 言われております。(キジムナーは魚の左目だけを食べて、身は友人に渡すため)

座敷わらしに近い伝承を持った妖精である。



マ

スコットキャラクターとしてのキジムナー


沖縄を代表する妖精キジムナーは近年、愛嬌があるとして沖縄県民や観光客から人気のキャラクターに なっています。某テレビ局や某大手観光施設のマスコットキャラクターにキジムナーを採用したり、グ ラフィックデザインされたアートや衣類など多くに使われ愛されています。

ちび絵の作者プロフィール

ちび絵作者 仲宗根 浩さんのプロフィール

ちび絵作者 仲宗根 浩さんのプロフィール 工房   :  深海魚-shinkaigyo
Designer :  仲宗根 浩
作品   :  流木、ちび絵、CrotoNのTシャツデザイン 等...
出版   :  『ライオンになった猫』 (※クリエイター仲間5人との共同制作)
活動   :  (有)ボーダーインク発行『Wander』表紙イラスト担当。
         (株)日本旅行トムソーヤクラブ事務局発行JAL『トムソーヤクラブ通信』
         挿絵イラスト担当。
         オリオンビール株式会社発行『びあぶれいく』表紙担当。
         おきなわのホームソング『星のクリスマス』のアニメーション担当
         (※比嘉ブラザーズとの共同制作)。
個展   :  喫茶『さんしょう』、三越ギャラリー、『羊の告白』展
         グループ展in神戸、神戸トアギャラリー、流木展
受賞歴  :  仏アニメーション専門学校シュパンフォコム沖縄校コンテストでグランプリ。
         (※内山嗣康氏との共同制作)
         『沖縄デジタル映像祭2007』で最優秀賞。
         フランスの映像祭『e-magicians』に招待出品・上映 等...


~1971~
・沖縄に生まれる。

~1994~
・持って生まれた方向音痴の才能を活かし、一年程日本各地で
 迷子になる。人の暖かさに味をしめる。

~1995~
・沖縄県北谷町美浜で手作り雑貨屋『森海魚』オープン。
 流木に話しかける危ない人になる。
・沖縄市、喫茶『さんしょう』にて初の個展。
 ラジオのインタビューで、しどろもどろになる。
・三越ギャラリーで個展。ちょっとうかれる。
・店に集まる変人さんたちと商売そっちのけで飲んだくれる。

~1999~
・当然店は潰れる。
・心やさしい知り合いのお店に絵や商品を置いてもらい、
 イラスト・デザインの仕事や創作活動に専念(?)する。
・ギャラリー喫茶『アルテ』鳥堀店にてジャズピアニストの
 宇都宮さんと『羊の告白』展。転げまわるほど楽しかった。

~2000~
・(有)ボーダーインク発行『Wander』表紙イラスト担当。
・ネットで知り合った日本各地の絵描きさんたちと神戸で
 グループ展をする。展示会の間中飲んだくれ、沖縄県民の
 イメージダウンに尽力。

~2001~
・(株)日本旅行トムソーヤクラブ事務局発行
 JAL『トムソーヤクラブ通信』挿絵イラスト担当
・前回のメンバーと冬の兵庫でお絵かき合宿展をする
 予想通り酒びたりの一週間となる。
 暖房の効いていないトイレで凍死しかける。
 県民のイメージダウンに拍車をかける。

~2002~
・神戸トアギャラリーにて個展。大阪観光。USJで花火を見る

~2003~
・神戸トアギャラリーにて個展。京都観光。清水の舞台にびびる

~2004~
・オリオンビール株式会社発行『びあぶれいく』表紙担当
・名護市にある雑貨屋さん『GreenTea』にて流木展。お客さんに
 人見知りしつつもハシャギまわる。迷惑・・・?
・絵本を出すと言って出さず、8年連続のウソつき野郎になる。

~2006~
・15年間交際した彼女と結婚。嬉しい。 
・ブログで知り合ったクリエイター仲間5人で待望の絵本
 『ライオンになった猫』を出版する。主人公の子猫の気持ちに
 なりきるため庭先でドロンコ遊びをしたり転がったりして遊ぶ。

~2007~
・フランスのアニメーション専門学校シュパンフォコムによる
 沖縄でのワークショップで2ヶ月間、3Dアニメーションを学ぶ。
 初めての3Dソフト、初めてのアニメーション創作にはしゃぎまくる。
 授業の全てが英語という環境の中、講師から
 『どこか解らないとこはあるか?』と質問され、『英語・・・』と答える。
・同ワークショップのコンテストで
 共同製作者、内山嗣康氏と共に制作した作品
 『FORBIDDEN PLANT』が、グランプリを受賞。 修了証を貰う。
・『沖縄デジタル映像祭2007』で最優秀賞を受賞。
・フランスで開催された映像祭『e-magicians』に招待出品・上映。
 ステージの上で紹介された後、暖かい拍手に包まれる
 照れくささで動きがギクシャクする。おかしな笑顔を振りまく。

~2008-2009~
・2年間の母親の介護生活で人の暖かさや繋がりを、あらためて実感する。
 沢山泣いて、沢山笑って、沢山怒って、沢山感謝した大切な時間を貰う。
・おきなわのホームソング『星のクリスマス』のアニメーションを
 ハリウッドじこみのアニメーション作家、比嘉ブラザーズと共に手がける。
・Tシャツショップ『CrotoN』のTシャツデザインを手がける。

~2010~
・3ヶ月で16キロのダイエットに成功する。
 急激に痩せたので、『病気ですか?』と聞かれる。
 『違う・・・』

全てはこの人から!社長プロフィール



■□■ 1973年2月17日 ■□■

沖縄県那覇市首里で生まれる。

少年時代はラジコン作りやモトクロスに明け暮れて勉強がおろそかで6年生のとき親が学校に呼び出しを喰らう。。。

(学力が3年生レベルで進学ができるか、親を悩ます。。。)

どうにか、高校(工業高校)へ進学はできたもののバイクとバイトの日々で、出席日数が足りず、

卒業が危うくなり卒業単位の替わり先生にゴマをすって実習でカバーしてもらう。

(学生時代は自称【プレイボーイ】 だけに毎日コンパに明け暮れる日々)



■□■ 1990年4月 ■□■

高校を卒業後、社会に出る恐怖がぬぐい切れなく専門学校へ進む。

専門学校では、学ぶ楽しさを知り資格をあさる様に取り捲る。

(簿記1級、秘書1級、情報処理2級などなど・・・。)

《 1992年 》

学生生活にピリオドを打ち社会人としてスタートする。

だが本心は・・・

まだ、学生生活をエンジョイしたいと甘い気持ちが続く・・・。

『時を止まってくれ~』

『もっと、遊びた~い』 と、心の叫びも届かず、気がつけば某一部上場企業<洋服の○山>に入社し、

アパレルの販売の仕事に就く。

入社時は、先輩や上司からは販売(営業)だけでなく、生地の質までいろいろなことを 学んだ。(お酒の飲み方も)
(その中に《 現CrotoN店長 宮里まゆみ 》からも先輩としていろ いろ指導を受ける)

売上を重視する部分もあり、自分の心の奥底にある誰にも負けたくないという気持ちが強くあり

12月には1日だけで売上 を100万以上上げるまでに成長していた。
その後、東京への転勤と順風満帆に進んでいたが、

いざ沖縄を離れ振り返ってみて『このままで良いのか』と自分自身に問いただしてみる・・・。

『もっと、他に可能性が自分にないのか?』

『自分は、何がしたいのか?』

『俺の居場所はここなのか?』

そう思った瞬間には、もう沖縄の地に足を降ろしていた。。。

帰ってきてからは悩みながらにも建設関係の営業をしながら

『自分は、何がしたいのか?』を模索していた。

《 1995年 》

転機が訪れた。

『 母の実家の家業であるくば笠作り引きづかないか 』をとい う話だった・・・。

返事は・・・『やろう!』

だが・・・・・そのくば笠作りの技術を持っている2代目が病気で亡くなり、

引きづくにも最初は、軽い気持ちで返事をしたが、いざ『やる』とは言ったものの何をどうやればよいのかもわからない・・・ 。



■□■ 1996年3月 ■□■

まずは、くば笠を作るにも場所が必要だった。

とりあえず、母方の実家(築80年ぐらい?)がくば笠の工房というのもあり、

そこで生活ができるように家の手直しから始め、庭の掃除と・・・。

そこの実家は駐車場が無く、駐車場を作ろうと樹齢50年ほどのくばの木を切り倒してしまった。。。

(今からくば笠職人として独立していく立場にありながらくばの木を・・・。)

その当時は前へ進むことだけを考えプ ランも無くただがむしゃらだった。

それが、原因かどうかかは定かではないが・・・多分、バチが当たったんだろう・・・その翌日に試練が訪れる。



■□■ 《立ち退き》 ■□■

母方の実家が借地だった為立ち退きを宣告されたのだ。

(人生はなんて脆く、儚いものか)

さすがにこれには私も落胆した・・・・・。

もう、どうすることもできない。

くば笠を作るどころか、自分で 独立するにあたり生活する家まで失うという現実、ましてや独立してくば笠を作るなんて・・・。

今までの人生が終わったかのように思えた。

でも、よくよく考えてみたら『まだ何もやってないじゃないか!!!』

今から新たな家と工房を探して作っていけばいいじゃないか!

そう考えるとこんなところで足踏みしている場合じゃない!

1日でも早く新たな家と、新工房を作ろう!それからくば笠作りを始めよう。

心機一転したあと、心強いパートナーもできた。学生時代の後輩に一緒にやらないかと声を掛けた。

すると、彼は『いいよ』の一言で仕事をすぐに辞めてきて一緒に始めた。

それが、《 現くば笠屋平和通り店店長 神山博吉 》

今でも、絶対の信頼のおけるパートナーである。

(当時、正直な気持ちとしては辞めてくるなよ~!先はまだ見えてないぞぉ、と思っていたけど・・・今では感謝・感謝である 。)



■□■ 1996年9月8日 ■□■

《 本当のスタート 》

当時23歳
(くばの日)

それから月日が経ち、くば笠について自分なりにいろいろとしらべてみた。

くば笠の歴史、原材料、くば笠作りに関して・・・etc。

分かった事は沖縄本島内では、くば笠職人が居ない!!!(大問題)

そこで、母に事情を相談して話をしていくと『 2代目が生前にテレビの取材でく ば笠作りをしていたビデオがある 』というではないか!!!

私はそのビデオを探すとテープが擦り切れるぐらいまで見よう見まねで覚えようと必死になった。

実際に沖縄県内にはもうくば笠職人はいない!

と、言うことは俺はこの仕事を途中で投げ出すと、もう県内にはくば笠を作る人はいなくなる。

それどころか、沖縄の伝統文化が1つ消えてなくなるかもしれない・・・。

そのようなことを考えると最初に軽い気持ちで返事した、『やろう!』と思うぐらいじゃあダメなんだ。

この文化、技術を後世に残す覚悟もないといけない。

また、残すためには続けないといけないんだ。

それを知ってからはスタートのとき以上に真剣取り組んでいった。

《 現実 》

実際、ビデオを見たごときではくば笠は作れなかった。

材料は少しながら先代のがあったが材料も加工も1からすべてこなさないといけない。

材料となるくばの葉や竹に関しては山に入って地主さんの許可を得て材料を集めまた、その材料を加工まですると膨大な仕事量 になった。

いざ、スタートをしてくばの葉は採ってきては天日干しにし、竹は青々としたもを採ってきて鉈で割っていくという工程になる 。

その時またしても、大事件が発生してしまった。

最初は、竹の割り方なども知らない素人《自分の事》が無理して竹を割ろうとして、一緒に自分の左人差し指もいっしょに切っ てしまった。

幸いというか、切った指は骨で止まりとりあえずは5針程度で済んだ。
(バンソウコウで止めようとしてた俺は・・・アホ !!!)

それからは、徐々に制作数も増えてきて、形もまともになってきた所で販売に行こうと意気揚々と営業に出たが、

今までの先代の得意先はみんな口をそろえて『2代目には程遠いね、こんなのは売れないと』門前払いをくらったのを今でも覚 えてる。。。

だが、これが現実。

それなら、まずは数をこなして形の良い先代に負けないクバ笠を作ってやる。

それから、毎日朝から夜中まで食事、睡眠以外はすべてくば笠作りに集中してた。

また、この制作をしている期間の生活費は彼女が働き食料を私に届けていてくれていた(今の私の《 大事な奥さん 》である。)

くば笠を作っては得意先へ納品していたが生活ができるほど収入は無く、くば笠作りを継続していくどころか生活すら危うくな ってきた。

それならくば笠の認知度を上げ、みんなに知ってもらえることができればくば笠をみんなが使ってくれてもっと需要が増えるん じゃないか?そう思うと、即行動を起こした。

まずは、商工会に相談し紹介してもらったのが県の伝統工芸館。

そこでくば笠の認知度を上げてもらえる手伝いはできないかと相談をしにいくとくば笠は『伝統工芸ではないのでお手伝いでき ることは無いです。』だった。。。

伝統工芸とは何です???と問いかけると、まずは100年以上の歴史が無いとダメと言う回答だった。

くば笠は歴史的に 600年以上の歴史があるにもかかわらず

(実際、福島県の博物館に琉球王朝時代の献上品が残されている)あまりにも認知度が低いため県などのサポートすら受けられ ない・・・。これが現実か・・・。

それなら、自分で認知を上げくば笠が売れなければ自分でルートを開拓して自分が作ったくば笠なら『 自分自身で売っていけばいい!!! 』

そこで、自分自身を見直すと、自分はもともと営業(販売、接客)が得意だ!!! 改めて、自分が得意だった仕事に気づく・ ・・。 職人で、技術は身についても販売はできないとかは良く聞く話だが、自分で作れて自分で営業、販売までできればくば笠作 りは継続して次の世代に残すことができるのでは? そう思うと、まずは行動だ!!!

まずは、当時流行っていたフリーマーケットに出て自分達が作ったくば笠を販売し、するとお客様からのいろいろな要望があっ た。

くば笠のみだけではなく、『バーキはないね~(竹細工)』、『くばオージはないね(くばのウチワ)』とたくさんの要望をい ただいた。

だが、くばオージはどうにか作れたが、バーキなどは竹細工の技術がないと作れない・・・、

それなら竹細工職人の所へ修行を兼ねて職人さんが作っているバーキや竹のかご類を仕入れさせていただき、その竹細工と一緒 にくば笠を販売していった。

それが今ある《 くば笠屋 》の原型となる本当のスタートになった。



■□■ 1997年 ■□■

いくつかフリーマーケットで出展してて、ある日転機が訪れる!!!

中城村のショッピングセンターで出展していたと き隣のブースで以前働いてた

職場の店長の奥さんが声を掛けてきた。

『面白いの販売しているね!それなら、沖縄市の『 プラザハウス 』で販売してみたら?観光客も来るから合うと思うよ』と声を掛けてきてく れた。

でも、自宅から通うと1時間以上かかる、まずは遠い・・・。

だが、このチャンスを今やらないでいつやる?

それなら考えているよりまず行動だ!!!

やってみよう!

早速、紹介を受けた店長のもとへ行きプラザハウスへの紹介を受けて出展の手続きまできたが、そこで新たな試練が訪れた。

運転資金だ!

今まで、経営のことなどまったく無知な自分にどこで、どのように?資金を借りていいか判らず、

知り合いに相談すると商工会で聞いてみれば?とアドバイスを受け早速、商工会へ相談に・・・、

自分には保証人も居なければ担保もない!そんな奴に借り入れなんてできるのか?不安を持ちつつ相談に行くと、

『それならマルケイで行きましょうか』、マルケイ?何ですか? 笑

『 県の融資制度で無担保、無保証人制度 』のことだった。

なんていい制度だ。これなら出展できると意気揚々でとりあえず100万円を借り入れをする。

だが、資金計画も計画と呼べるものでもなく・・・、契約金やその他経費、少しの商品の仕入れで100万円はあっという間に なくなる・・・。

もう、運転資金はない!!!どうする?明日からでもすぐにでも店をOPENさせなければ支払いが始まる・・・。

考えている暇はない!とりあえずは店を営業しよう!

しかし、現実はそんなに甘くない!一日の売上は1万円~2万円程度、

それの売上の粗利分で仕入れをし、また翌日の営業という自転車操業が始まっただけだった。。。

でも、その時は右も左もわからぬまま始めた事業・・・、ただ一生懸命にくば笠の認知度を上げひたすらに突き進むしかない仕 事でも楽しかった・・・。

(それは今でも仕事への楽しさを忘れない・・・。)

そんな日々が続いている時、また運命的な出会いがある。

《 デザイナー仲宗根浩さん 》だ!

(現くば笠屋、CrotoNの看板やTシャツのデザインを手がける世界にも名を馳せているアーティストだ)

最初の印象はお互いにあまり良くなかったらしいが、話をしているとどこか馬が合う!

わからないけど、これがフィーリングというヤツか???

今でこそ、仲宗根さんの作品(商品)といったらちび絵(キ ジムナーをモチーフにした絵)が主流だが、

その当時は流木で作った作品を仕入れて販売していたのを覚えている。

(今でも、仕事のパートナーであり、とてもお世話になっている素晴らしい仲間でもある。)



■□■ 1999年7月 ■□■

《 新たなチャレンジ 》

プラザハウスでいつものように営業をしてたら、思わぬチャンスが舞い降りた。

沖縄県内でも大手の観光施設『 琉球村 』からのテナントの出 展依頼だった。最初は、運転資金もままならない状態で、

これ以上の出展なんてありえないと1度はお断りをさせていただいたが、幾度かの出展へのラブコールがあって、新たに決意す る。

だが、プラザハウスの時同様、運転資金がないOPENさせるためには今以上の運転資金が必要だし、

今までは神山との二人三脚でどうにかこなせた部分を新たにスタッフを雇用して給料も支払わなくてはならない。

そこで、また商工会に相談に行き今度は資金計画から運営方法まで相談に乗ってもらいながら500万の融資を受け新たなチャ レンジへ挑む。

琉球村でOPENさせると、タイミングとその時の客層との商品構成が良かったのか爆発的に大ヒットした。

その流れのうわさを聞きつけたのかどうかは知らないが、またまた、出展のオファーが舞い込んできた!

次は、名護だった!

(正直、また遠いな~・・・と思った。)



■□■ 2001年8月 ■□■

《 またまた新たな挑戦と試練 》

名護への出展が決まる。こちらも琉球村同様県内では有名な観光施設、

『  ナゴパイナップルパーク 』だ。

ここでも新たにスタッフを採用し、売場の什器など(ちなみに店舗の什器などは今でもすべて私の手作り!)を設置し、いざO PENをした。

OPENしたのもつかの間、世界的大惨事に見舞われる!

そう!『 9.11事件 』、『 アメリカ同時多発テロ 』。。。

OPENして1ヶ月もしないうちに同時多発テロの影響で沖縄観光への客足は遠退き売上はみるみる落ち込んでいった・・・。

このままなら、会社が潰れてしまう。ましてやくば笠を次世代に残していけなくなる。それよりも沖縄の観光がなくなってしま う!

これじゃダメだ!どうにかしないと・・・。

でも、自分たちになにができるんだ???

考えても始まらない、今できることは一人一人のお客様に今以上に沖縄の良さを伝えてまた沖縄に来ていただけるように努めよ う!

その沖縄の良さを伝えながら、またくば笠屋に戻ってきてくれるような接客をしてたら、少しづつ客足は回復していった。

(その時、改めて心のこもった接客でお客様に接すればまた、戻ってきてくれるのを実感した。感謝、感謝。)

その後、各店舗とも順調に少しづつだが売上も伸びてきて、新たに出展の話とかもあり、気がつけば県内、中部、北部に合わせ て5店舗に拡大してた。

順調に行ってるときに、また新たな出会いがあった!

以前にアパレル関係の時の先輩である《 宮里まゆみ 》さんだ 。(現CrotoN店長)

彼女は某コンビニエンスのスーパーアドバイザーという仕事をしていた。

その経験も含め、私はくば笠屋へ誘った。

これから『 国際通りへ 』の出店も視野に入れ販路を拡大して いきたから是非力を貸して欲しいというとOKのサインをもらった。

新しいメンバーも加わり、くば笠屋(くば笠)の認知度も上がっていき観光客だけではなく、

地元のウチナーンチュにも多くの人にくば笠のことを知って欲しいからには、

沖縄のメインストリートである国際通りへの出店を視野に入れた。

だが、国際通りは観光での競争は激しく、空き店舗が空いてからの出店などありえなく、せめてコネなどがあれば・・・。

不動産に出店の申し込みを入れてもなかなか難しく、それなら空いている物件を自分で探し大家さんに直談判だ。

思い立ったら即行動!早速1件発見!大家さんに直接話をしにいくとなかなか首を立てに振ってくれない。

幾度となく話し合いを進めて行くにつれて私の情熱が届いたのか、2ヶ月以上の交渉の末店舗を貸してくれた。

これで、沖縄のメインストリートである国際通りでチャレンジができる!

店舗の改装に手がけ(今でも店舗の内装、什 器は自分たちで作っている)

1ヶ月あまりで『 国際通り1号店 』を完成させる。



■□■ 2004年8月 ■□■

《 くば笠屋 国際通り1号店 OPEN !!! 》

待望の国際通りに店もOPENさせたが、今までとは違った!

今までは光熱費などはテナント持ちだった為経費は掛からず、営業時間も定時で決まっていた分人件費も抑えられていた。

だが、自分で店舗を運営となると営業時間は長くなりその分人件費は掛かり必要以上に経費が重なった。

また、国際通り店を切り盛りしているうちに他の店舗にも影響が出て、『 本島北部での店舗を閉店( 3店舗) 』

くば笠屋の第1号店の『 プラザハウス店 』も閉店と追い込まれた。

今までは順調に売上も店舗も伸ばしてきたが、自分でどうにかできると、若干ながら、天狗になっていた結果がこれだろう!! !

これを機にいろいろと学び、会社は社長一人だけでやって行くのではなく、スタッフとともに成長をしていかなくてはならない 。

会社の運営と同時にこれからは今以上にスタッフの人材育成にも力を入れていかなくてはこれからの発展はない!



■□■ 2006年 ■□■

《 また、新たな挑戦 》

知人が、『 国際通りの三越近くで店舗 』を構えており運営が 芳しくなからかわりにやってみないか!という提案だった。

だいぶ、1号店も落ち着いてきたころで国際通りのお客様の流れも見えてきたところで私は二つ返事で『ハイ』と答えた。

引き続き、店舗をさせてもらいリニューアルまでに数ヶ月を掛け、

くば笠屋初の琉球ガラス専門店として『 くば笠屋国際通り2号店 』 としてOPENさせた。



■□■ 2006年10月 ■□■

《 くば笠屋 国際通り 2号店 OPEN 》

2号店はお客様が3~4人ほど入ればいっぱいになるほどの小さな店舗で、その店舗の改装には苦労した。

その人数のお客様が入っても窮屈感を極力感じないような売場作りを設計し什器を制作したのを覚えている。

また、バス停の前という環境で地元のお客様も来店されて、「あら、カワイイお店だね」とうれしいお言葉をいただいた。

当初の目的であったくば笠屋の認知度を上げるという目的に1歩近づいていた。



■□■ 2007年 ■□■

そのから、国際通り1号店、2号店、琉球村店と売上も順調に上がっていき勢いもあったせいか、またまた嬉しいチャンスがき た。

当時は少し賑わいが芳しくなかった国際通りに接する『 平和通りでの店舗 』 の展開の依頼がきた。

でも、今までとは店舗の大きさが違っていた。

それだけ分、商品量も経費もかかる!(大丈夫かぁ???)

でも、このときにいろいろな情報もあり隣接する強力なSHOPもOPENする話を聞き、

ここは今までの経験を活かし立ち上がった!!!

その話が決まってから、店舗内装にも力をいれてよい材料を使い工期も早めたく、初の内装業者さんにお願いをした。



■□■ 2007年12月 ■□■

《 琉球ガラス専門店 くば笠屋国際通り(平和通り店) OPEN 》

2007年12月26日OPEN

コンセプトは、くば笠を自分たちで作って、自分たちで販売してくば笠屋を立ち上げた、

あのころを思い出して自分たちを含め、

県内で活躍している工芸作家や沖縄県に根付いたデザインアーティスト(基本、頑張っている人たち)に

もっと活動の場を広げられるような空間をメインに観光客だけでなく、

地元の人や、世界中の人たちに発信していく店舗作りで、商品構成に関しては、今までのくば笠屋の集大成というような感じで 、

琉球ガラスをメインにシーサーやアクセサリー、また今まで取り扱いがなかった壺屋焼きなどもバラエティ豊富な売場展開にし た。



■□■ 2008年7月 ■□■

《 家族旅行 》

平和通り店もOPENして、少し落ち着いたころ家族4人で旅行に出かけた。

その時、何かが私にアイデアをもたらせた・・???!!!

(休日も、頭の中身はいつも仕事で、娘たちに嫌がられるけど・・・) 笑

旅行から帰ってきて早速、そのアイデアを自分なりにまとめ上げ、デザイナーである仲宗根さんの所へ尋ねてこういった。

『 「Tシャツ屋さんをやろう!」 』

仲宗根さんは、口をあけ唖然としていた。

理由は、過去に一度、一緒にTシャツをデザインして大損した失敗談があるからだ! でも、過去に失敗があるからこそ成功へ の道があるじゃないか!

同じ失敗をするのではなく、失敗にから多くのことを学んで、

次は必ず成功させるという熱意で仲宗根さんを説得し、デザインを依頼した。

それが、『 Tシャツ専門店 CrotoN (クロトン) 』 のスタートである。



■□■ 2008年10月 ■□■

Tシャツのデザインコンセプトはカッコいい&カワイイをイメージして、

沖縄の紅型を基調に新たな紅型というスタイルで他になく、みんなが感動と共感してくれるデザインで進めた。

店舗名も『 くば笠屋とは違うコンセプト 』を作りたかったの で、

『 沖縄をイメージし、世界中の共通語でもある CrotoN (クロトン)  』にした。

(最初は、スペルを調べず名前だけが先行しててKUROTONになっていたけど、看板を作成するギリギリで気がついた)  笑

また、コンセプトまでは決まったが、ここでデザイナーを困らせてしまった。

OPENの日程を先に決めデザインを依頼してしまったから、さぁ大変!

 でも、ここでも仲宗根さんはいつもの私のわがままをイヤな顔せず(少しは嫌な顔はしていたかな?)

「大丈夫よ、一緒にやってみよう」と声をかけてくれ、毎日夜中までデザインに明け暮れサンプルを作っては一つづつ仕上げて いった。



■□■ 2009年3月 ■□■

ようやく、OPENにたどりついた。




■□■ 2009年3月1日 ■□■

《 CrotoN 平和通り店 OPEN 》

OPEN初日から、同業者や平和通りの周りの店舗からも高評価を得て、

お客様からも『カワイイTシャツだね!彼氏のも一緒に欲しい』と嬉しいお声を頂いている。

また、デザインはもちろんCrotoNでは、オリジナルを重視した商品ラインナップを今でも作り続けている。



■□■ 2011年6月 ■□■

《 現在 》

オンラインのネットショップ『 「Tシャツ専門店 CrotoN」 と、「琉球ガラス専門店くば笠屋」を運営し、

さらに日本各地のデパートにて開催されている「沖縄物産展」に精力 的に出展を行っている。

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